昭和五十年十月九日 御理解 第二十五節 「信心は大きな信心がよい、迷い信心ではいかぬ一心に定めい」



大きな信心大きなおかげ、これは連のうとらねばいけん、単に口では大きな信心を語り、如何にも大きな信心を目指しておると、頂いておると言うてもそれにおかげが伴って行かなかったら、大きな信心じゃない大きな信心と言う事は、おおきなおかげを頂かにゃいけん。今日は私は御神前に何回も繰り返し繰り返し、私の名前です、大坪総一郎、大坪総一郎と言うのを頂くのです、そしたら今日の二十五節でしたから、大きい坪と言う事は土辺に平と書いてある。
これはもう三十年も前でしたかね、私は神様からいろいろお知らせを頂くようになった時、私が大坪総一郎と命名されたいわれを神様から頂いた事があります、私の父が大坪徳蔵と言う徳の蔵と書いてある、その徳の蔵からその徳の蔵に入っておるすべてのものを、一つにして集めると言う意味が、大坪総一郎と言う名前の中にあるんだと言う。
易学的に言っても大坪総一郎と言うのは、八百万の神神様が集まられると言う程しの名前だと、姓名学から言うたらこの大坪総一郎と言う名前はおかげをそのまま子供にも孫にも、末広がりに伝えて行けれる名前だと、これは北野の秋山さんが、お子さんを、あちらには有名な産婆さんがあります、その方は大変姓名学に詳しい方ですから、自分が取り上げた子供には必ず名前を付けてやんなさる。
ところが秋山さんのところだけは、当時は椛目ですね、まあ金光様で頂くからと言うので、言われるので、どけな名前ば椛目の先生はどけな名前の先生かとたずねられた、それで大坪総一郎と書いて、先生の名前はこんなと言って、まあまあ姓名学で言うと大坪総一郎と言う名前を見てたまがってしまわれた、丁度用紙一枚にその訳をずーと書いて、秋山さんが持って来て下さった、それを私は宙には覚えてはおりませんけど、この名前は開運とかね、幸せになるとか、一代だけならねよか名前があるのです。
ところがその子供にも孫にも伝わると言う名前は無いです、もう完璧と言うなら、もうこげな完璧な名前はないだろうと、まあ大した名。
結局大坪総一郎と言うのは大きな、徳の蔵からその徳を全部持って一つのに集めると言う、これは私と秋永先生と光橋先生と博多の福岡の西鉄の駅で電車を待っている間に、見て貰った易者が私の名前を見てから、私の顔を見たり私の顔を本を見たりしてから、してから、あなたここを読んで下さいと言うて、あなた折角見て貰うてから、説明も聞かんごたるなら、なにもならんじゃないですかと言うたら、もう説明の仕様がない、そりゃもう素晴らしい事ばかり書いてある、ばらばら見たらそしてその秋永先生にも、光橋先生にもこう言う素晴らしい友達をもっておるから、この友達の言われる通りにすれば幸せになると言う意味の事を言いました。
これは人相とか骨相とか言うでしょう、そのいろいろな易者さんは私の人相を見たり、易学を見てそう言う風に申しました。今日は私が頂くのもその大坪総一郎と言う事を、何回も頂くからどう言う事であろうかと思うたら、今日御理解二十五節、所謂信心は大きな信心が良いと言うのですから、所謂大坪総一郎と言う名前のような信心をするが一番良かと言う事になるのです。
私もやはり大きな信心を目指しとりますから、去年より今年と言うように段々大きな信心が、本当なものになって行く、語ると言う事だけではなくて、信心を語ると言う事は容易いそれは私昨日お道の信心を、見せて頂いて外にも二三の記事を見せて頂いて、こう言う素晴らしい事をわかっておられる先生のところで、どうしてヒレイが立たんのだろうかと、位に分かってあるです、語ることはだからそんなに容易いです、けれどもそれを自分が実行するとか、そう言う信心をするとかは至難です。
難しいけれども私は思うのですけど、昨日もでした久富茂雄さん、愈々御用さして貰うとる時に、頂いたんですけれども人ながらと言うことを申します、人ながらなんて言葉はありませんけれども、此処独特の言葉です。神ながらに対する人なからですね、言うなら、神ながらと言うのは一分一里間違いない働きをうける、たときなどにああ神ながらのおかげを頂いたと言いましょう、人ながらと言うのは、だから人事の限りをつくすとでも申しましょうか、先日末永先生の導きで此処に住友銀行の集金にきなさる方が、いろいろ用件に来て下さる、その方にお導きをさせて頂く事によって、チョイチョイ参って来るようになった。奥さんを貰ったお願いをして子供が出来た、丁度初詣でを一昨日でしたかして参りました その時に頂いた御理解でしたけれど、普通では人事をつくして天命を待つといいます、例えば人事を尽くす、試験なら試験勉強してあとは天命を待つ、天命に任せると言うのですけれど、任せる、その答えが出て来るまでは試験なら試験の発表があるまでは、不安でたまらんでしょう幾ら任せると言うても、けど私が頂いたのはね、天命を信じて人事をつくすと頂きました、神様の働きを信じてそして人事を尽くすと、神ながら神ながらと言うのはです、自分は腕こま抜いておって一分一里間違いのない、働きを受けて行くと言うような、実はそうではないのですけど、そう言う受け取り方をする、これは神ながらじゃがと言う行き方をする人があります。
天命を信ずる神様の働きを信じて、そして人事を尽くして行くと言うてある、人ながらと言うのはそう言う事、神ながらと言うのはそこから生まれてくる神様の間違いのない働きを言うのです。
私は茂雄さんに少し説明をしましたけど、とてもとても一時二時で説明が出来る極みものじゃない事ですけども、人ながら神ながらながらの道があると言うことです、なからの道と言うのです、人も神もついてない。もう今日の信心は大きい信心がよい言いながら、ながらの道であります、これはもう限りがない底がないのです、これはまたいつか時間を頂いてながらの道を極めて行こうと思います。ああ一分一里間違いのない働きと言います、そう例えば事ではなくしてです、まあ言うならばお願いをして右と願ったけれども左となったと言う時をです、言わばそれを有難いなあ、神様の働きを信じて受ける行き方のような感じです、一口で言うと言うながらの道とはそう言う道です。ですから底がない深さ広さに於いてもながらの道があると言う事を頂きました、もう悪もなければ善もないと言うその境地ですかね、そう言う境地も開けて来るおかげもあります。
今日私大坪総一郎と頂いてです、この大きな信心を頂いておりますから、聞いてそこでです、なら大は勿論大であります、大きな大、坪は土辺に平と書いてある、そこでね私共がね、それこそ信心を語る事は容易いけれども信心をする事は難しいと、言うなら信心を語る事の容易さ、信心をする事の難しいさと言う事です、ところがね今日皆さんに聞いて頂く、信心はその気になれば一つも難しい事はないと言う、ややこしい事じゃないと言うことを聞いて頂きたい。
そこでね大きな信心とはどう言う事かと言うと、大地のような土のような信心と言う事になるのです、ええですか大きな信心とは土のような信心だと、だから土のような信心をすればそれで良いのです、そこでなら土のような信心とはどのような事かと言うと、それこそ大地のように黙って受けて受けて受けぬく、以外にはないと言う事になります。だからその気になれば受けられると言う事です、ややこしいーこっちゃない理屈じゃない、黙って受けて受けて受けぬく事が、私は一番大きな信心だと思います、しかもそれが愈々それが自分のものになって行く。昨日も朝参りしてきた方が、又午後電話が掛かって来た、お弁当を造るところが、御主人がお弁当のお菜が気に入らん、そこで黙って治めるといいよるが、もうかっと来たわけです、あんた給料が安かけんでよかお菜が作られんと言うと、よかお菜は詰められんと言ったと、ああそれから主人も働きなさった、しもうたと思うたと思うたれけどもう言うてしもうた、そこですぐ電話を掛けて来た、こう言うつまらん事を言いましたがどうぞお詫びを言うて下さいと、言うのであります、そして今から主人にお弁当を持って行きますから、どうぞお詫びを言うて下さいと言うて電話が掛かって来ました。
だからその大地のような信心させて頂くと、そこに例えば本気で思いましてもそう言う失敗がやっぱりありますけれども、あったら詫びると言う事です、それは主人であろうが子供でおろうが、勿論神様にお取り次ぎを頂いて詫びて行くと言うような、信心からです本当のものになって来ると思うです、そして電話で申しました、私がいつも言うようにいくらカーッときても、そこで一口言うごたる時でもです、大きな声を出して自分の心の中に号令をかけなさい、大きくなれ大きくなれと号令をかけるんだと、だからそう言う信心に徹しさせて頂くことを、私は大きな信心だと思います。外にいろんな事覚えなくてもこれ一つ覚えたら大きな信心、同時に大きなおかげが約束される。私は聞きませんでしたけれど、先日先生ばかりの会に、熊本の富永先生が見えておりました、西岡先生でした、でしょうか、末永先生ですか、最近先生私の方にはもうお供えが多くなったので驚いておりますと、もう合楽の信心を身に帰依しておかげを頂いとる教会でまず、第一にお酒が多くなるですね、そしてお供えが沢山多くなるです、小さい言うなら教会ですけどそれはもう本当にお供えの多いのには驚くばかり、結局それは私の信心がそのままその教会に同じヒレイなっとるわけです。
だからここで信心頂いておられるのに、信者の皆さんであってもその帰依が出来れば、私と同じに第一病気をせんで済むおかげ、次にお金に不自由せんで済むおかげ、家庭に争いのないおかげこれが頂けなければ、合楽の真のおかげ頂いておるとは言えないと私はおもうです、結局言うならば大地の信心、所謂大きな信心が出来ないと思わして貰ってそこに一ちょ焦点をおかなければいけません。
その時に言うとられた最近はお広前で手狭になった、だから移転の話しが出て土地を買わせて頂こうと言う事になった、ところがその候補に上がった土地が何と大坪町と言う、だから信者一同が言うておる、もう親先生こんどはおかげを頂きますばい、合楽の親先生の名前大坪町なんて、家の教会が出来ると必ずおかげ頂けますばい、と言うてしかし、私はもう本当にそうだと思います、又そう言う頂き方が合楽流なのですよ、ですから私の頂いておるおかげが大小といろいろありましょうけども、いくら小でもそれが中になり大になればよいのです、ためには如何に大坪総一郎の信心であって、そのまま皆さんが頂かなければならないかと言う事がわかるんです。
そしてこれは私がそれに徹して居るとと言う、一つの中に今日の大きな信心と言う事に聞いて頂きました。黙って治めるとか黙って受けて行くと言う、信心に徹していると言う事であります、だからこれは皆さんどうでも皆さんの信心になさらなければいけんのです、今日聞いて頂きました、ながらの道と、そう言う私は人ながらや神ながら、そしてながらの道をひた進みに進むことでしょう。
底がない限りがない、それを少しは私も頂いて行っているなと言うことを、実感しました 愈々これまでと言う事ではない限りがない底がないねそう言う信心を頂いてです、いかないと天命を信ずると言う心が生まれません、神の働きを信ずると言う心が生まれて来ません、天命を信じそして人事を尽くす、とそこに生まれてくるのが安心という信心の最高のおかげであります。
人事を尽くして天命を待つと言うのは自分の思う通りのおかげが、頂ければやれやれよかったで、済むけれどもやはり試験なら試験の発表があるまでは不安である、それでは安心ではありません、天命を信じて人事を尽くして行くところに、生まれて来るのが安心の境地です、どう言うお道の信心を知っても覚えてもそう言う大きな信心からでないと迷いが起こります、そこでもし自分の信心はこれに定まったこれに決めたと、土のような大地の信心をさせて頂く以外ないんだと、一心に定めいと仰るのは、そう言うところに一心をもって行かなければいかんと思いますね。どうぞ。